プロローグの1日

AM2:00 深夜の厨房に最初の職人、斉藤亮がやってくる。
午前6時の開店に向け、仕込みをはじめる。
食パン、パンドミ、イギリスパン、フランスパン、ソフトフランス…。
レシピを見ながら、斉藤は10種類もの生地を仕込む。

斉藤は2年目にして、パン屋の味に関わる重要なポジションである、仕込みをまかされている。
温度や湿度は毎日変わる。
夏の温度調節は特にむずかしい。
「プレッシャーはあるけど、やらなきゃいけないし、やるしかない」
夜中でも蒸し暑かったこの日、斉藤は大量の氷を投入した。

AM3:00 その他の職人も次々と厨房にやってきて、握手を交わす。
出社時は全員と握手するのが、プロローグの約束。

サンドイッチも午前3時から作られる。
朝6時の開店に、手作りのフィリングをはさんだサンドイッチを並べるために。
田澤佳苗はじゃがいもをゆで、丹麻奈美はトマトをカットする。
薄暗い厨房に食べ物の香りが漂い、レタスやトマトの鮮やかな色彩が花のように開く。

ホイロの中では前日に作られた生地が炎に焼かれる瞬間を待ち受けている。

話し声はない。
トントントンとスケッパーがまな板をリズミカルに叩く音、ガチャと秤の皿が揺れる音だけが響いている。
目にも止まらぬ速さで、山本昌弘は生地を分割しつづける。
「いまの時期は生地がすぐだれちゃうんで、急いでやらないといけない。
量が多いから本気でやらざるをえないし」
膨大な生地があっというまに同じ大きさの小片へ分けられていく。

向山園恵は一心不乱に菓子パンの成形をつづけていた。
周囲の仕事の速度についていけるのか不安があるという。
「みんなから『がんばればなんとかなる』『気持ちさえあれば』といわれますが、その通りだと思います。気持ちしかないんで」
時間は待ってくれない。
開店の時刻までにパンを焼き上げるために、悩んでいる暇も、疲れている暇もない。

杉山真紀子は3時からもうパンを焼きはじめた。
まず前日のパンを使ったメイプルフレンチなどからはじめ、次にサンドイッチ用のパン。
休憩も取らず、誰と話すこともなく、窯に向かい、焼き上がったパンに仕上げをする。
昼過ぎまで、見えていたのは、黙々と仕事をする横顔と背中ばかりだった。

AM4:00 山本昌弘と大野弥生は苦戦していた。
生地を丸める機械が故障して、思い通りに動かなくなったのだ。
時間は刻々と過ぎる。
内部にくっついた生地を辛抱強く取り出す。

大野弥生は食パンの生地を缶に詰める作業を手伝いながら、一方でドーナツをフライヤーで揚げ、同時に窯からたくさんのバンズや菓子パンを取り出しては、厨房をいっぱいにする。
「パンに囲まれて仕事ができて、おいしいパンがいつも食べられて幸せです」と彼女はいった。

焼き上げられたばかりのパンが浅野景圭によってサンドイッチの厨房へと運ばれていく。
田沢と丹の手によって野菜やフィリングをのせられ、4時すぎには最初のサンドイッチができあがる。

AM 5:00 オーナーシェフの山本敬三が姿を現すと、厨房の空気にひときわ緊張が漂った。
次々と職人たちと握手を交わし、声をかける。
厳しい顔つきでフランスパンの成形を行い、背中で従業員を鼓舞する。

4店舗統括マネージャーの伊藤涼子は、この時間に独特の空気をこのように説明した。
「開店前のパン屋には威圧感とオーラがありますね。
開店の朝6時までは戦場。
舞台がはじまる前の雰囲気。
6時まではばちっと集中してやろうぜ、という気持ちで全員仕事をして、開店時刻になったらスイッチに切り替え、お客さんにサービスをするとい気持ちになる」

加藤智子店長も5時をまわった頃には店にやってきて、この日出社予定の社員全員が揃った。
挨拶もそこそこに暗い店内でパンを包装しはじめる。

AM 5:30 パンが焼き上がるたびに、棚に並べられていく。
がらんとした棚がパンで埋まるにつれ、店の中が少しずつ華やいでいく。

AM5:45 開店時刻15分前、最初の客が扉を押した。
「商品はぜんぶ揃っていませんが、あるものでよければ」と加藤店長は笑顔で招き入れる。
プロローグのモットーは「あの店にいけば必ずやってくれる」。
開店まで客を待たせることはしない。

山本昌弘が食パンを持って売り場に現れたのは5時55分。
機械の不調にもかかわらず、焼きたての食パンを開店時に並べることができた。

6時15分現在、どれぐらいのパンが並んでいるか、数えてみた。
サンドイッチ20種、菓子パン50種、食パン・バラエティブレッド10種。
前日から置かれている焼き菓子20種類も入れると約100種類。
早朝にこれだけ焼きたてのパンを置く店はそうそうない。
「サンド、こんなにあるのすごいっしょ?
菓子パンも、午後のもんだって思われてるけど、あれば絶対売れる。
いま買って、お昼に食べたりもできるし。
きついことでもやってあげれば、お客さん、すごくよろこぶ」
と山本シェフ。

AM6:30 仕事が一息ついて、売り場で職人たちが顔を合わせ、声をかけあった。
この日はじめて見る笑顔だった。

AM8:00 ひとりまたひとりと販売担当の従業員が増えていく。
早朝にも関わらずたくさんの客でにぎわう店内。
朝からパン屋でパンを買う習慣はめずらしいことに思えるが、そうではないのだ。
焼きたてのパンを誰もが朝に食べたい。
他に開いている店が一軒もない時間に毎日営業をつづけているからこそ、ぬくもりを求めて、客は集まる。

一息ついたのはほんのつかの間に過ぎない。
この店では毎日250種類ものパンを販売する。
パンは作りつづけられなくてはならない。

できあがったパンは次々と並べられ、9時前には250種類のほとんどが店頭に並んだ。
活気づいた店内は人であふれる。

AM11:30 「これからピークがくる」と山本シェフが予言した通り、レジに長蛇の列ができた。
13時頃まで、店内は常に客でいっぱい。

昼前に生地の仕込みは終わったが、売り切れた商品を追加で作る。
昼過ぎまでパンは焼かれつづける。

PM14:30 忙しかった時間が終わり、店内から一瞬客の姿が消える。
人心地ついたように、従業員たちから笑顔が漏れる。
「本当はこんなもんじゃないんですよ。
せっかく取材にきた日に…」
と小林祐がいうと、加藤店長もうなずく。
がんばってたくさんのパンを売りたいという気持ちは全員に共有されている。

その頃、この日はじめて作業台の上になにもなくなった。
始業からパンをパンを作りつづけて12時間目のこと。

全員が休んでいるわけではない。
向山が明日の生地の仕込みを行っていた。
重い小麦粉の袋を抱える。走る。
この職場は女子も男子も分け隔てない。

PM17:00 がらんとした棚。
山積みされていたパンが見事に消えた。
サンドイッチの厨房では明日のための準備。
客足は減ったが、誰もが仕事を見つけて休みなく働く。

パンを作り終えたあとは掃除。
これも大事な仕事。
時間をかけて丹念に行う。

PM17:15 終業のミーティング。
早番の斉藤はすでに帰っていたが、他のスタッフが出社した朝3時から14時間が経過している。
山本シェフがひとりひとりと力強い握手を交わし、働きをねぎらう。

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